昭和43年4月3日 朝の御理解
                   中村良一
御理解 第61節
「神より、金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」



 この六十一節ですね。この、神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞというところです。天地の親神様から、お伝えがあった、金光大神に対するところのお話というものは、尽きぬおかげが伴う。尽きぬおかげを、それを話にして残しておかれておるのが、神誡、神訓、御理解なのです。そこで、こうして、この教典を紐解かせて頂きまして、この文字に現れておりますところだけを見ますと、もう実に、平易、平凡、もう、誰でも分かるような感じですけれど。実際、これを、御理解頂いてみると、その難しさ、深さ。もう、とてもとても、大変な事だと思うのです。
 先日、秋永先生の奥さんが、言うておられましたが。最近、古事記の勉強をしておる。もうj、そすとその、古事記に出てくる一つの、物語的なものがですね。椛目の信心に、御理解に、あまりにも繋がっておるというか。その、いよいよ、合楽で頂くところの御理解というものの、その深さというものを感じると、こう言われる。これは、日本の古事記、ね。または、キリスト教にあるバイブル。それから、仏教の経典。何万巻とも分からんほどの、沢山な、その仏典があります。それは、やはりその、宇宙の真理を極めたものの書であります。古事記も同じこと。だから、ここの御理解も、そうなんです。ここの御理解という事は、どういう事かと言うと、金光大神の、いわゆる、天地の親神様が、尽きぬおかげをですね、話にして残しておられるものなんです。それが、表現を致しますとですね。例えて申しますと、まぁ、六十一節を申しましたですね。
第六十節に、簡単な御教えがある。「おかげは受け徳。受け勝ち。」これだけなんです。だから、おかげは受け徳、受け勝ちと、こう頂きますとですね。まぁそこに、何かおかげがあってです。もうそれを、早かもん勝ちで、貰うてしもうて、といった様な感じでしょうが。しかもその、受け勝ちでない。そういう事ではないという事は、なるほど、おかげを受けて、人がたまがるようなおかげを受けたけれども。受けたおかげが、おかげを落とす元になっておるでしょうが。だから、受け徳じゃないです。だから、この御理解を、私は、只今、頂きますとですね。おかげは受け徳という事はね。徳を受けた者が勝ちという事なんです。受け徳というところは、徳を受けた者が勝ちだという事なんです。ここにあるおかげを、早う取りぐっちょのようにして、取るという事じゃないという事。信心させて頂いて、徳を受けて、おかげを受ける。だから、徳を受けた者が勝ちだという事です。だから、信心する者は、お徳を受けるために、一生懸命にならなきゃならん事が分かりますですね。もう、今まで、おかげは受け徳、受け勝ちと頂きますと。何か、ピンと来なかった。合楽の信心は、そんな受け徳はち言うて、合楽のお広前に、おかげがこうやって、転んどる訳じゃないです。それを、どんどん、持って帰る。参ってくりゃ、どんどん持って帰るという様な訳にいかん。いやよし、持って帰ったにしてもです、持って帰ったそのおかげが、返っておかげを落とす元になっておる人も、幾らもあるという事。ですから、受け徳以外じゃない事が分かるでしょう。だから、受け徳と仰るのは、徳を受けるという事。いうなら、漢文風に頂かにゃいけないところです。徳を、信心させて頂いて、徳を受けた者が勝ちじゃという事。そこで、徳を受ける信心になってくる訳ですよね。
 私は、今日は、ここのところを、大体、六十一節を頂いたんですけれども。その、こう見せて頂いとりますと、六十節、六十一節。この六十二節になりますとですね。「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」と。ここらあたりでも、人よりわれがなおよけれという様な事なんかでもね。ちょっと、まぁ自分よがりです。ね。自己主義的な、といった様な感じで、ここは受けるところですけれども。確かにね、まず、自分が、先ほどのね、まず自分が、身に徳を受けて、そして、おかげを現わして。ためには、後に人を助けてやれと。自分が助からない前に、自分が徳を受けない前に、人を助けてやる事は出来ないから、まず、わが身に、先におかげを受けてと仰る。世間で言う、その、人よりわれはなおよかれというのとは、ここでは、大変、違う事になる。人よりか我、我がまださっき、と言うのではなくてですね。まず、わが先に、お徳を受けて、おかげを受けなければ、自分が力を頂かなければ、人を助ける事も出来ないのだと。ね。
 同じく、六十三節になりますとですね。「一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。」と。ですから、ここで分からせて頂く事はね。私共が頂くおかげというのはね、一粒万倍になるようなおかげでなからなければ、本当なものじゃないという事が言えるです。いわゆる、生きた種を蒔かせて貰わなければ、生きた芽は出らない、生きた花は咲かない、生きた実りは生まれない。例えて、まぁ、ここに教会があると致しましょうか。昨日、群馬県のね、山崎教会のところのご信者さんが、こちらに、商いに来たんです。それで、九州中を回って、今、田主丸に宿を取って、商いをして歩いているという人が参って来たんです。もう、ここへ入ってから、あまりに見事な御広前だから、びっくり仰天してしまった。全国を回りますけども、こんなに素晴らしいお広前は初めてだと。二三日前も、これは、不思議なんですよね。こちらで、寄ったというのが、ここに関係のある所ばかり寄っておられるですね。東飯塚の大久保先生のところに寄った。それから、先日は、鹿児島へ行って、行徳先生ところへ寄ったて言うんですよ。でも、教会が見えるから入るけれども、その、入ったというところが、私に関係のあるような所ばっかり、入っておられるですね。まぁ、その方が、現在その、山崎市ですか、高崎市とか言ったが。その、十六万市民だ、大きな市なんです。そこにね、教会が一軒しか、布教所が一軒しかない、教会じゃない。それに、長い間、そこに教会があったんですけれどもね。そこの先生が亡くなられたところが、その息子さんが、後を継がれないという訳なんです。そんな訳で、そこの、例えば、家も屋敷も、借金の片で、全部取られてしもうて無くなったその後に、佐藤博敏先生の息子さんで、佐藤何とかという、二十七歳になられる、まだ、独身の方だそうですが。ここ、一二年、あちらに布教に行っておられるそうです。そらもう、長年のその、そういうところですから、道が開け難いんですね。そういう沢山な中に合って、たった、金光教の教会が、教会でもな、その布教所が一軒しかない。人は助からない。集まらない。そこで、まぁ、熱心にまぁ、布教があっておるという事ですけれどもね。それでその、私、今、この御理解から頂きますとですたい。本当にその、一粒万倍になるような、私は、おかげを受けなければ。例えば、私は、ほんなこっじゃない、本当のおかげじゃないと。信者が行き届かないとか、信者が、いっちょん、お導きをせんとか。はぁ、お導きしよる、お導きしよると言うてもです。中心そのものの信心が、一粒万倍になるような、生きた種を持っておらんなら、おかげの頂ける筈がない。如何に、教会長先生自身が、やはり、生きた信心を頂いておかなければならないか。生きた、やはり、おかげを受けておかなければならないかという事が分かる。これは、教会だけの事じゃありません。皆さんの信心でも同じこと。どんなに、おかげを受けたというても、それが、一粒万倍になるようなおかげを頂かなければですね、本当の事じゃない。
 まぁ、そこで、今日は、六十一節から、六十三節までを読ませて頂いたが、これは、私が、今、言おうとしておる。神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心して、おかげを受けたら、神心となりて、人へ丁寧に話して行くのが神へのお礼ぞ。ここん所の、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞという所を、皆さんが、頂いて下さらなきゃならないとこう思う。ここでは、金光大神が、神様から受けられた。尽きぬおかげに繋がる話を、私が、いよいよ、私が、こう十八年間、朝に晩に、こうやって話て、尽きる事が無い。ここで、尽きる事のないお話をさせて頂いておるにも関わらず、ほんなら、皆さんが、尽きぬおかげに繋がって来ておるだろうか。ここを一つ、思うて頂きたいと、こう思う。尽きぬおかげを、お互い頂きながら、尽きぬおかげに繋がり、いわば、おかげを、御理解を、ここで頂かせて頂きながら。果たして、尽きぬおかげに、お互いが、繋がっておるだろうか。繋がっていない。
 昨夜の御理解の中に、信心をしておればですね。もう、こりゃ、絶対、そら、どういう信心であっても、何とはなしにおかげになるです。二十年、三十年、信心を続けた人達の姿を見ておるとですね。止めたら、もうお終いですね。もう、おかげを受けられんけん、止めておればです。けれどもその、何十年間、信心を続けておるとですね。何とはなしに、おかげを受けておるです。間違いないです。それを、私は、昨日、あの椛目の、田中の事と、久留米の石井清さんところの例を取って話したんですけれどもね。何十年、やっぱ、信心が続いておるから。信心が良し悪しは別として、何とはなしに、おかげを受けております。続けておればです、ね。続けておる。信心辛抱が出来ておる。必ず、花が咲く。梅の花のような、信心辛抱梅の花、花が咲く。必ず咲くのだから、必ず、これが、よし、それが、薮梅であっても、藪鶯が来て止まるのだ。もう必ず、ホウホケキョを、ここで、歌をさえずるようなおかげを受けられるのである。そこで、その、信心辛抱しておる間に、いわゆる、ここを頂いておけと言うのです。尽きぬおかげに繋がる信心を、しっかり、身に付けておけというのです。これはもう、絶対ですよ。もう、金光様の信心をする、なるほど、信心辛抱さえしておれば、物事、整わん事ないと仰るのは本当です。けれども、おかげは受けられん。こりゃ、大したことはなかと言うて、止めれば、それまで。けれども、こりゃ、本当に、私、昨日、田中の家の事を申しましたが。そこに信心の喜びとか。信心頂いてござるけん、違うなぁという事は、一つもないに、例えば、致しましても。おかげだけは、確かに、何とはなしにおかげ、今度、貞夫さんの結婚式何かに、それを、いよいよ、思うのです。確かに、おかげを受けておるです。けどもそりゃ、おかげを受けて、梅の花が咲いて、鶯が来て止まっただけではいけんて。だから、問題は、この信心辛抱、その咲くまでの間にです。お互い、信心を、しっかり、身に付けておけ。ここでしっかり、実を付けておきませんとですね。その鶯は、必ず、また去るのです。その咲いた花は、必ず散るのです。ですから、これは、実りましょう。けれども、実っただけでですよ。実っただけで、例えば、これが、スイスイ梅で、頂いてしまえば、それまで。ほっておきゃ、もう、熟して腐ってしまう。ここに、紫蘇なら紫蘇というものと、合わせて、梅干しにさせてもらったところにです。何時何時までも尽きぬおかげに繋がる。何時まで置いても、悪くならないという。何時までも、何時までも尽きぬおかげに繋がる。それがね、ここの、信心辛抱梅の花とこう言う、その梅の花が咲くまでの信心辛抱の間に、お互い、信心を分からせて頂いておけというのである。そして、そこに頂いて、はぁ、梅の花が咲いた。これが本当に、鶯が来て止まったのであろうかという様なおかげを頂かせて貰うて。それが散って、それが、鶯が去った後にです。そこに、はぁ淋しい事だと言う事になったんなら、もうこりゃ、徳にはならない。紫蘇というのは、例えば、死相が現れると、こう言う。例えば、死相が現れる様なです。例えば、人間の、ぎりぎりの難儀な問題に、直面致しましてもです。そこんところを、へこたれずに、その紫蘇こそが、今まで辛抱してきた、梅の実と一緒になって、梅干しになるおかげが頂かれるのであると思うて、その難儀な問題を、いよいよ、大事にしていく様なおかげを、頂きさえすればです。これが、梅干しになる。梅干しになるという事は、これは、何時までも尽きぬおかげ。何時までも悪くならない。何時までも尽きぬおかげに繋がってくるのでございます。
 そこで、ほんなら、皆さんの場合です。もう皆さん、こうやって、朝参り、みんな、一生けん命なさっておられる方達の場合は、私は、まず、こう思う事はですね。今日は、あの、盛大の盛、盛んという字。もう、ある意味での信心がなった。ここにもう、受けものさえありゃですね。盛んの、盛んという事は、ゴヒレイ、ゴヒレイを、銘々の家庭の上に現わす事が出来るという事なんですよ。須田先生が仰ったようにですね。神ながらですね。とにかく信心は、一念で決めよと仰ったような勢いが、今、皆さんの上にあるでしょう。ここに、いわゆる、皿というのは、私は、受けものだと思うですね。皿は受けものです。神の願いが地上になる。神の願いが、地上に、降る様に合っておっても。ただし、これが、ね、受けものが無かったら、おかげは受けられません。だから、皆さんは、今、その受けものを、しっかり、受けよりなさるところですから。ここんところを、いよいよ、目の詰まった信心をさせて貰うて、神様の願いが地上になるおかげを頂かせて貰うて、神恩かたじけなしの生活に、お互いが、入って頂かなければならんのです。
 先日、月次祭の終わった後でした。私が、裏に控えておりましたら、秋永先生が、入って見えてから。まぁ、いろいろ話されるんです。先生もう、最近、本当に感じます。こうやって、朝参りをはじめさせて頂くようになって、十八年間、ここで、御信心の稽古をさせて頂いて。何時も、何とはなしに、親先生と、こう繋がっておられるという事が有難い。だから、日参り、夜参りしなくても、ちゃんと繋がって、そら事実、そうでしたもんね。先生が、月次祭ぐらいしか参ってこんのに、お話をしておると、私が、今日、話した話をしておるですね。という様に繋がっておったんです。けれども、そういうものは、繋がっておっても、おかげは繋がっていなかったんです。そんな感じがするんです。寒修行から、この方、こうして、夫婦で、一生懸命、朝参りが出来るようになった。こういう有難いことを、どうして、早く気づかったじゃろうかというて。初めの間は、そりゃ、きつかった。眠うもあった、きつうもあった。けれども、この頃はです、自分の生活の中の、もう、一部としてですね。これを、当たり前のごとしてなされるようになってきた。これはもう有難い。そしてもう、最近もう、その感じます事ですね。それは、神様の働きのですね、一分一厘、確かに間違いのない働き。私ども夫婦が、御祈念を頂いて帰ります。もう有難いで、勿体ないで帰る。帰ってですね、けれども、十分間、例えば、ほんなら、今日の有難かったという気持ちを忘れるとするか。それを、横に置くとするか。なおざりにするというか。必ず、十分間、おかげが、互い違いになってくるんです。もう十五分間置きますと、十五分間、互い違いになってくる。もう、ここの見事な事には、ただ驚いておりますとこう言う。だから、五分でも、十分でも、疎かに出来ないという事を実感しておるとこう言うのです。
 今日、私は、皆さんにね。尽きぬおかげを話にしておくのぞと。尽きぬおかげを頂かせて頂く。そして、今の、梅の、私が、例えを申しましたように。皆さんが、ちょうど、まだ、鶯がくる前の、信心辛抱を、一生懸命なさっておられる時に、何を分からせて貰い、何を、刻々、体験させて頂かねばならんかと言うと。神様の、一分一厘間違いのない働き。十分間間違や、十分間違うてくる。それが、一時間も、二時間も、三時間も違うてくるようになりますとです。もう分からないように違うてくる。いわゆる、参りよるやら、参りよらんやら分からん。おかげじゃら、おかげでないやら分からん様な事になって来たんでは、ほんなら、皆さんが、例えば、一年間、一生懸命になられてもです。一年間で決めよと仰る、その決まらない、これでは。そうでしょうが。ですから、そんならその、秋永委員長が、そう言うております様な所をです。皆さんも、しっかり、私は、頂いて行かなきゃならないと。そこにね、尽きぬおかげに繋がる。尽きぬ話は、皆さん、ここでは、なるほど、尽きぬ話を、金光大神に残しておくと、天地の親神様が行っておられるがです。もう確かに、尽きぬおかげを話に残してあるなという事を、ここでは、皆さんが、それを信用せん訳にはいかんでしょうが。皆さんが、十八年間、お参りをしてから、いっぺんでも、同じ話を頂いた事があるですか。枝葉にはありますよ。けども、今日は、ここを分かって貰わなきゃならんという事を、二度と、私は言うたことはないです。というほどに、尽きぬおかげが、話にして残してあるのです。ですから、尽きぬ話を頂かせて貰うたら、尽きぬおかげに繋がらなければ。その尽きぬおかげに繋がらせて頂くために、皆さんがね、神様の、一分一厘間違いのない働きをね。自分の心に、しっかり、頂き止めさせて貰うという、おかげを頂かねばならぬ。頂いて行かなければならぬ。そういう信心が、梅の花が咲くまでの間に、なされておかなければならない。そこに、鶯が来て止まる。花が咲く、鶯が来て止まる。本当に、わが世の春と思わせて頂く様な所をです。今の、一番最後のところにですね。神になるのぞと。真の道を踏ませるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても神より上になるとは思うな。神より上になると思うな。神より上になろうと思うてはならん。先生より、上になるとは思うな。先生は、あげん言いよりなさるばってん、自分の言う事がほんなこつ、という様な事になってくる時にです。おかげの受けられない、いわば、元が、またそこで出来る。そこで花が散る。そこで鶯が去っていく。けれども、後には、青い、いわば、つぶらな梅の実が実る。その実を、私共が、どのような問題があろうが、なかろうが。その事をです。いわゆる、梅干しを作る、紫蘇の葉とも思わせて貰うて、いよいよ、安心の気持ちを開かせて貰うて行くために、いわゆる、梅の花が咲くまでの間の信心が、こう出来ておらんと、ここが出来んのです。そして、それを、いよいよ、徳にして行く。おかげは受け徳、受け勝ちというのは、そういう意味なんです。おかげは、徳を受けた者が勝ちなのだ。そして、そこからは、どういう事になってくるか。いわゆる、尽きぬおかげが頂けてくる。しかも、これが、一粒万倍の元にならん事はないという事が分かる。
 これは、昨日、夕べの御理解の中に、田中と、石井さんところの例を申しましたが。石氏さん、石井清さんの場合なんかは、もう本当に、久留米に見えた時に、もう本当に、それはもう、なーにもない、無一物の中から、あぁしておかげを受けて行ったんですよ。沢山の姉妹が、みんな結婚をする、家別れをする。そして、日商ゴムという、ああいう、ゴムの会社の設立をする。もうそれこそ、鶯が来てから、ホウホケキョを言いよるかのように感じられる。その頃から、お参りしてこんようになった。私よりか、素晴らしい事を考えとるように、まぁ、人にも吹聴するようになった。さぁ、ここんところが、ほんなら、現在、もう、それこそまた、昨日、あちらの母親が、お礼に出て参りましたがですね。もう本当に、もう、それこそ、大地に叩きつけられたような状態。その中に、おかげを頂いてはおりますけれども。だから、ここんところを一つ、おかげ頂き直さにゃいかんよと言うて、話した事でございますけれどもね。ここんにきが、私は、神より上になるとは思うなというところが、大事じゃないかと、こう思うのですよね。皆さんも、おかげを受けられた暁に、そこんところを、一つ、よう、心掛けとかにゃいかんのです。でないと、それが、本当の徳にならんのです。もう、ここんところを、本当に、まだ、詳しくね、お話をすると、もっと分かりやすいでしょうけれども。今日は、私は、尽きぬおかげを話にして残しておくのぞと仰る。如何に、合楽のお話というか、御理解がです。尽きぬものであるかという事を分かられると同時に、その尽きぬおかげに繋がらせて頂くために、梅の例えを持って、皆さんに聞いて貰いました。そして、秋永先生が、言うております様に、本当に、十分違や、十分の、いわば、違いがここに、現れてくるほどの事をです。これに感じさせて頂けれる信心が、梅の花の咲くまでに、出来ておるならばです。その、
 ( 途中切れ )